日本史

『昔は寺に駆け込めば離婚できた?』夫の横暴に悩んだ妻たちのための救済制度とは

画像:東慶寺山門。江戸時代には街道に面して大門があり 現在の山門は中門で男子禁制の結界だった。

日本にはかつて、縁切寺という女性のための救済施設が存在した。

寺院とはいえ、ただ神仏のご利益にあやかり縁切りが叶うわけではない。

縁切寺は夫婦間の調停を取り持つ調停機関であり、かつ女性の意思を優先して離婚を成立させてくれる救済機関でもあったのだ。

日本で庶民が、今日でいう結婚の形式を取るようになったのは江戸時代頃からとされているが、江戸は当時世界でも随一の離婚率を誇る都市であったという。

今回は、縁切寺の歴史や、江戸幕府公認の縁切寺とされた東慶寺と満徳寺、さらに日本の離婚の歴史について触れていく。

室町時代までの結婚と離婚

画像:国宝・源氏物語絵巻「宿木(三)」の断簡 徳川美術館蔵 public domain

現代では夫婦が離婚する場合、話し合いや調停、裁判などを経て、夫婦連名の離婚届を国に提出するという方法が一般的だが、昔の離婚は一体どのように行っていたのだろうか。

日本で今日のような婚姻制度が導入されたのは明治時代で、明治31年に明治民法が施行されて「家」制度が確立したことにより、現在の婚姻制度が始まったとされる。
公的に妻側から離婚を切り出せるようになったのも、明治時代に入ってからのことである。

鎌倉時代初期頃までは貴族も庶民も「通い婚」が主流で、男性が気に入った女性、もしくは親同士の間で決められた女性の家に夜中に通い、それが3日続けば結婚式を行うという方法が取られていた。

一応は古代律令法において離婚の条件も定められていたが、夫が妻の家に通ってこなくなれば、その状態がすなわち離婚になっていたという。

これは貴族においても庶民においても同様だが、結婚に関するルールはあやふやで、中には夫の家に妻を呼び寄せて夫の両親と同居して生活するパターンもあった。

画像:御成敗式目を制定した北条泰時 歌川国芳 – 大日本錦絵 和田合戰義秀惣門押破 public domain

鎌倉時代に入ると、武家社会が中心となる中流・上流階級では一夫一婦制の婚姻制度と家長制度が始まり、夫婦は一つ屋根の下で同居する形が主流となった。
当初は夫が妻側の用意した家に入ることが一般的であったが、摂関家の婿迎婚で不吉な出来事が重なったことから、公家の間でも嫁取婚が盛んになっていく。

離婚についての具体的かつ実践的なルールが生まれたのは、この「婚家に嫁入り(または婿入り)する」文化が根付いた鎌倉時代だ。離婚について「御成敗式目」では、夫側にのみ、話し合いにおいて離婚が請求できる条件と権利が定められた。

女性が離婚をしたい場合はというと、地頭に訴状を出して裁判を行い、夫の非が認められれば離婚して夫を村から追い出すことができた上に、住居を安堵されて安寧な生活を得られた。
しかし地頭が離婚を認めなければ、妻は荷物や財産をまとめて逃亡していたという。

その後、室町時代に至るまでに女性の立場は徐々に弱くなり、鎌倉時代までは妻は自身の財産を保有することができていたが、それが不可能になっていく。

女性には離婚を切り出す権利がなく、後の生活のために持ち出せるような財産もない。
どうしても離婚したいのに夫が認めないという場合、妻は最後の手段として、尼寺などの夫の手が及ばぬ場所に駆け込んで無理矢理にでも別居し、離婚を成立させるという方法を取った。

戦国時代に入ると家同士の繋がりが重視されるようになったため、妻から離婚を申し出ることも前時代に比べれば容易になったというが、原則的に女性側に離婚請求権が認められることはなかった。

画像:離縁状、いわゆる三下半。 東慶寺に残るものは駆込女が無事に内済離縁となったときの縁状の写しである。 wiki c Ktmchi

そして江戸時代に入ると、農民や庶民の間にも婚姻制度が浸透し始め、離婚したがる男女も増え出した。

江戸時代以前の庶民の結婚や離婚の実態については、夫婦それぞれの立場や権利について諸説あるが、建前上は妻が離婚を願い出たとしても、夫が離婚に同意して妻に離縁状を渡さなければ、すぐには離婚成立とならなかった。

しかし、江戸時代中期以前には既に社会通念として「夫婦が3年別居していれば結婚関係は破綻している」と考えられていたため、何とかして夫と別れたい妻たちはまず別居を強行したという。

そのため、仲人や親族が仲介して協議離婚が成立すれば、妻が夫から形式的な離縁状を受け取って話は済んでいたが、離婚話がこじれた時には寺や尼寺、武家屋敷に「縁切奉公」に出て、力尽くで離婚を成立させていたのだ。

縁切寺の寺法

画像:寺法離縁状 夫だけでなく名主も署名し、宛先は鎌倉松岡御所様御役所となっている。wiki c Ktmchi

ここからは、江戸時代に縁切寺がどのように離婚したい女性を庇護していたかについて触れていこう。

縁切寺は女性専用の駆け込み場所であったため、女性の幸福が第一に考えられた。

夫を見限った女性が縁切寺に駆け込むと、寺はまず妻の身上を確認してから妻側の縁者を呼んで復縁できないか諭させて、それでも妻が離婚を願う場合には離婚を成立させるための調停を行った。

縁切寺の調停特権は幕府によって担保されたものであり、夫が寺の召喚や調停に応じない場合は寺社奉行などによって応じることが強制された。
縁切寺の管轄は日本全国に及んでおり、夫は日本のどこに住んでいたとしても要請に応じなければならなかった。

当時の男たちにとって、妻が縁切寺に駆け込むことは大きな恥とされており、多くの場合で縁切寺が離婚調停を行えば、夫はおとなしく離縁状を書き協議離婚が成立していたという。
調停で話が丸く収まれば、縁切寺に駆け込んだ女性は寺に入ることなく、親元などに戻っていた。

しかし、夫がどうしても離婚に応じない場合は、妻が住み込みで寺の務めに従事して夫から離れ、東慶寺の場合では足掛け3年、満2年務め上げれば、晴れて離婚が成立して自由になることができた。

縁切寺に駆け込もうとする妻を捕まえるために追いかけてくる夫も少なくはなかったが、寺によっては妻の身体はもちろん、身につけていた物が門の中に入っていた場合は、たとえ夫であっても連れ戻すことはできない決まりがあったという。

東慶寺

画像:神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の東慶寺。本堂 wiki c Naokijp

鎌倉時代以降、離婚したい女性を手助けする尼寺はいくつもあったとされるが、江戸時代には2つの寺院が幕府公認の縁切寺となった。

これは豊臣から徳川の時代になり、他の寺院の治外法権的な特権が廃止されたことが影響している。

江戸幕府に公認された縁切寺である鎌倉の東慶寺が創建されたのは、北条貞時が鎌倉幕府第9代執権となった翌年の1285年のことだ。

東慶寺は貞時の母である覚山尼の請願により、貞時を開基、覚山尼を開山として建立されたと伝わっている。

覚山尼は「ひどい夫から逃れられず自害する女性が後を絶たないため、彼女たちを召し抱えて夫との縁を切ってやりたい」と息子の貞時に願い出て、朝廷の勅許を賜り縁切が認められるようになったという。

残念だが、東慶寺では1515年に起きた火災で多くの古文書が焼失してしまったと考えられ、創建当時の史料がほとんど失われてしまっている。

画像 : 千姫(天樹院)の肖像画(部分) public domain

東慶寺が縁切寺として江戸幕府に承認されたきっかけは、徳川秀忠の娘であり、豊臣秀頼の正室であった千姫の養女・天秀尼が、東慶寺に尼僧として入ったことである。

天秀尼は秀頼と側室の間に生まれた娘だったが、千姫が幼い天秀尼の助命を命がけで嘆願した結果、天秀尼は仏門に入ることを条件にその命を救われた。そして天秀尼は千姫の養女となり、東慶寺に入ることになった。

東慶寺では代々、後醍醐天皇の皇女や関東公方の娘、古河公方の娘、小弓公方の娘が住持となっており、尼寺の中では特別な格式を持つ寺であったため、千姫の養女を入れるにふさわしいと判断されたのだ。

東慶寺の伝承では、千姫の祖父である徳川家康が、天秀尼が東慶寺に入る際に文で「何か願いはあるか」と問い、それに対して天秀尼が「開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ」と答えたため、東慶寺の縁切りの寺法が「権現様御声懸かり」になったとされている。

その後、天秀尼は東慶寺の20世住持となり、東慶寺は千姫を通じて徳川幕府との繋がりを強めていった。

縁切寺として確固たる地位を築いた東慶寺には、江戸末期の150年間だけでも実に2000人を超える女性が、縁切りを求めて駆け込んだであろうといわれている。

満徳寺

画像:満徳寺復元本堂(群馬県太田市) wiki c 京浜にけ

東慶寺と同じく江戸幕府公認の縁切寺とされた満徳寺は、群馬県太田市にかつて存在した尼寺である。

北条義時が執権であった1221年頃に創建されたとされる、東慶寺よりも古い歴史を持つ寺院だった。

開基は得川氏・世良田氏の祖であり、松平氏の遠祖とされる得川義季(新田義季)で、開山は義季の娘とされている。満徳寺には山号院号はなく、「徳川満徳寺」が正式名称であった。

満徳寺が幕府公認の縁切寺となった理由にも、東慶寺と同じく千姫が関係している。
千姫は豊臣秀頼と死に別れた後、本田忠刻と再婚するために縁切りを目的として、満徳寺に入山したとされている。

寺伝によれば、千姫の代理として侍女の刑部卿局が入山し、俊澄尼と称して満徳寺の住職になったとされるが、実際は刑部卿局の娘が満徳寺に住職として入山したものと推測されている。

東慶寺と比べれば、江戸から遠い満徳寺に駆け込む女性は少なかったが、明治5年に廃寺となるまで幕府公認の縁切寺として離婚調停を行っていた。

日本人の結婚観

画像:江戸時代の結婚式のイラスト(1824) (イサーク・ティチング画) public domain

江戸時代が終わり明治に入ると、ようやく女性の離婚請求権が認められるようになり、縁切寺法は廃止され、東慶寺と満徳寺は離婚調停機関としての役目を終えた。

東慶寺は鎌倉に現存しているが、今は尼寺ではなく円覚寺末の男性僧侶の寺となっている。しかし縁切りのご利益を求めて訪れる女性は今でも少なくない。

満徳寺は廃寺となってしまったが、現在の満徳寺遺跡地には本堂・駆け込み門などが復元され、公園として整備されている。

江戸時代以前の女性たちが夫と離婚したいと願った理由は、家庭不和、夫の浮気や暴力、経済DV、姑や舅との確執など、現代の離婚理由とさほど変わりない。

江戸時代の家庭においては女性も貴重な労働力であったため、夫に大きな問題はなくても、夫から離縁状をもらいたいがためにわざと家事を怠けたり、愛人を作ったりする女性もいたという。

そのため江戸時代の離婚率や再婚率は、意外なことに現代よりも高かった。
元来宗教に結婚観を縛られない日本人にとっては、一生涯たった1人のパートナーと添い遂げるという行為が、思いのほか容易ではなかったのだ。

近年は離婚率よりも未婚率の高さと、それに伴う少子化が問題視されている。

将来的な人口の減少により国家としての存続すら危ぶまれる今、結婚のハードルを上げる「共白髪」前提の日本人の結婚観や婚姻制度を、見直すべき時が来ているのかもしれない。

参考文献
穂積 重遠 (著)『離縁状と縁切寺
高木 侃 (著)『三くだり半と縁切寺: 江戸の離婚を読みなおす
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

北森詩乃

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娘に毎日振り回されながら在宅ライターをしている雑学好きのアラフォー主婦です。子育てが落ち着いたら趣味だった御朱印集めを再開したいと目論んでいます。目下の悩みの種はPTA。
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